場所は、内陸側に30分ほど走る。そこはもう岩手県である。一関市千厩というのだろうか。平成の合併で一関に編入されたようで、前は東磐井郡千厩町のようである。
名前は畑の沢鉱泉・・・・通称 たまご湯
下図赤ピンが本吉、黄色が今野八郎右衛門神社、青がたまご湯
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ここに7回ほどかよったが、なかなか素朴で地区の人も入りに来ていて、行くとお茶とか、場合によっては漬物を出したりしてくれる。近くのおばさんが交代で受付をしている。地区の町おこしに地区の手で作った素朴な湯。
近くに江戸時代の義士 昆野八郎右衛門の神社がある。今も地元の人が祭っている。偉い義士さんなのである。
気仙沼線線路
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上の写真緑色ピンが小さな赤牛漁港
黄、青、赤が瓦礫撤去した家
海沿いに気仙沼線があるはずだが、山沿いを除いてはずたずた。
この家ではまず散乱した魚網の片付けから始まった。海を見下ろす高台で5月の風がさわやかだった。(上の写真の赤色ピンの家、GOOGLE地図だと海から最短で平面的には150mの距離)
景気がよかった頃遠洋漁船に乗り、稼いだ金で周囲の家に先駆けて、新築した家だったそうだ。
土台しか残っておらず、どんな家だったか、今となってはわからない。
昼に海に行き、海からの高さを目測で測ってみたが、どう考えても敷地の高さまで20m以上はあると思う。一体どれくらいの波だったのか?
主人は当日外出しており、。船の沖出しは出来ず大小全部の船を失ったようだ。時期が来れば青森の方で突きん棒漁でカジキも獲る船だといっていた。
新造船であれば3000万はするそうである。保険をかけていたのか。まさか津波保険はかけていないだろうね。
こんなところになぜ船が転がっているのか。
この写真の左隣の家は、家主の女性が疎開してしまい、親戚が心配して、ボランティアに片づけを依頼した。写真はない。この親戚という親子も、地震の時、船を沖出しし、2隻は大丈夫だったとか。二晩海の上で過ごしたとか。状況もわからず、食料もなく、また寒かったが逃げた船同士で食べ物も融通しあったそうである。(写真青色ピンの家 土台しか残っていなかった。殆ど1日わたしは敷地内に砕け散ったガラス拾いをしていた。)
前方坂を下ると海に行く。右手はボランティアが被災家屋の裏手の屋外の清掃を行っている。前日には俺もこの家で活動した。雨が少し降りつづき、家の裏の傾斜して足場の悪いところであった。
この家は半農半漁、地震当日は、急いで港に行き船だけは沖出して大丈夫だったとか。
家は全壊で、母屋の形がなし。(写真黄色ピンの家)
左手の畑の中の家はどこから流れてきたのか?
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