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2011年5月5日木曜日

1.東北震災ボランティア 鮎川、小網倉

思いつきで震災ボランティアに行く


 3月11日は、友人宅でアルバイトをしていた。比較的大きなゆれで、ややあって外に出て様子をみたが、また戻り特に気にしていなかったが、3時半に一区切りがついたので、帰宅しようと思い、奥さんに挨拶をしに行ったら、どうも津波で大変なことになっているとのことでテレビを見るかといわれた。いや自宅で見ますといってすぐに帰って、SWITCHを入れると、今思うと名取あたりだろうか、ヘリの上空から撮影した、津波が田畑を嘗め尽くす映像を実況していた。
 その後もいろんな津波の映像をコタツに入りすごいなーと見ていた。その頃今思えばたくさんの人が、波に呑まれていたと思うと、申し訳ないという気持ちである。

 夕方になり、ここ焼津地方にも大津波警報が発令された。大津波警報なんてのは初めてなので、やや驚き、父親、母親を避難させることにして、5Kmくらい内陸の親戚に避難させた。家に帰ってきたら今度は娘を避難させろということになり、10kmくらい内陸の藤枝市の嫁の実家に避難させた。

 避難途上タイの友人複数から、安否の確認電話があった。情報が即刻タイでも流れていたことになる。まだこのときは電話が通じた。しかし運転中であったので直後にかけなおすと、なかなか通じなかった。
 その後は家でコタツでビールを飲みながら、テレビを見ていたが我が海岸では数十センチの津波が来たと後から聞いた。

その後、友人のアルバイトが忙しくなってきたが、仕事が一段落したら東北に出かけようと考え始めていた。釧路の友人が震災直後の早い時期から(3月26日ころから?)岩手山田町でボランティアをしていて、状況を連絡してくれた、影響もあっただろう。

 4月21日に仕事が終わったので、22日出発となった。その頃は東北自動車道も一般人が通行できるようになっていた。
 では場所をどこにするか。まず福島は佐藤知事の言動に問題があったのでこれは除外。彼は口をあければ、東電が悪い、政府が悪いである。文句を言っていればよくなる問題でない。
やはり、漁村に行きたい、あまり手が入って困っていそうなところ、ということで半島部を探し、結局牡鹿半島にいくことに決めた。ボランティアセンターに行くことは考えになく、単独で出かけることにしてもしうまくいかなければ、ボランティアセンターに身を寄せれば良いと考えた。

漁師の住むエリアに行くからには、かつおを差し入れに持っていこうとかねてより決めていた。多分、生魚を食べたくてうずうずしていると思ったからである。

調べたら焼津の福一漁業が朝5時から店を開いているという。
出発当日福一により1万円弱の魚を、発砲スチロールに詰めた。かつおたたき10本、マグロブロック2個
そのほかに、マルクで購入した釜揚げシラス、干しシラス。
薬味のにんにく、たまねぎ、しょうが、しょうゆも購入。
缶ビール1ケース
家からは金ちゃん(金麓園)のお茶1袋。


より大きな地図で 牡鹿半島 を表示



石巻に着いたのが夕方6時頃、雨が降ってきて、これから暗くなるし、牡鹿半島部の道の状況がよくわからない。夜走るのは危険かなーと思い始めた。もう魚は夕食には間に合わなくなってしまったし。しかしこの日のために購入したカーナビは、道をしっかり捉えていた。
カーナビに導かれずるずると半島部に進入していくと、前に車が走っている。後ろについて、ところどころに危険箇所があるが避けながら入っていく。


より大きな地図で 牡鹿半島 を表示

事前にINTERNETで避難所のありそうなところを調べていたが、記入してある地図を家に置き忘れてしまった。中でもたまたま記憶にあった、地名をカーナビで照らし合わせながら、避難所がないか探した。大きな避難所では差し入れにも限りがあるので小さな避難所でなければならない。完全に暗くなってしまったが、たまたま壊れた家から出てきた人に避難所のありかを尋ねるとこの近くにあるという。道を行きつ戻りつしていると、1枚の粗末な看板に、小網倉避難所の文字を発見。
地図の青いピンのところ。赤いピンは女川原発


翌日も雨っぽかった。
前の日は夜であったのでよくわからなかったが、翌日の避難所のあたりの浜の状況である。



個人で手をつけられる状況ではない。






1ヶ月以上経過した後の状態である。震災直後は道路も瓦礫で一杯で行き来が多分出来なかったのであろう。自衛隊が一気に道を開いたとその力を評価していた。








1個数万円すると言うブイがあちこちに転がっていた。


電柱の復旧は比較的早かったように思う。



これは翌日の鮎川の中心部、港と陸の境が見えない。





地盤沈下が全域で70cmくらいから1mでおきているとのこと。






牡鹿半島の一番先頭の展望台、この上は危険で進入禁止であった。
岬からは金華山が見える。





小網倉で明日朝になれば大きなかつおの生きえさを運ぶ船が乗り上げているのはが見えるよ。と言われたいわしのなまえさ運搬船



自衛隊が行方不明者を探しているのだろうか













これが後々連絡を取ることになる荻浜中学校。校舎の足元まで浸水したようだった。
ボラが早く終わりこの前の浜でカレーを作って食べたっけ。








浜のすぐ近くにあった保育園、園児は大丈夫だったんだろうか?






牡鹿半島の道の状態





これが小網倉避難所の看板





せいぜい2,30軒の小さな集落
海から100mくらいしかないのに、そんなに高い津波ではなかったのだろうか。200mくらい入った家はそのまま暮らしていたようだ。
赤いRED CROSSのテントで集落の人は共同で3度の食事をみんなでしているようだった。
いわゆる避難所でなく強いて言えば、PRIVATEである。






山の方に逃げたが様子を見に下に下りてきてなくなった方がいたという。
ベージュの家がリーダの家でこの家の前で持参した差し入れを渡す。
大変喜ばれて、そのまま帰ろうとすると、泊まっていけと言う。雨が降っているしどこに泊まるか決めていなかったので、ベージュの家に泊めてもらうことにした。1階は浸水し、2階で寝泊りしていた。近所の方も少し集まってきてくれ、早速かつおも少し切られ、食べてもらった。ぼくは食べるわけにはいかないのでビールを飲んだ。
残りは翌日みんなで食べるということであった。もって行ってよかった。
電気は発電機がうなっていて、冷蔵庫も生きていた。

9時には消灯でした。
トイレは水がなく汲み置きで流したが、外には、簡易型のトイレがあった。さすが漁師は、発電機といい、生活力があると思った。

酒は潤沢にあり、することがないので、結構普段どうり呑んでいる気配であった。差し入れがあるようだ。




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