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2011年5月1日日曜日

5.東北震災ボランティア 雄勝町

大川小学校から雄勝町方面に向かう。

Wikipediaによれば雄勝町は雄勝浜村、明神浜村、名振浜村、船越浜村、大須浜村、熊沢浜村、桑浜村、立浜村、大浜村、小島浜村、水浜村、分浜村が合併し十五浜村となりそれが市町村制施行により雄勝町になったとある。15の浜からなる町だったのである。
もともとがすべての村の名前に浜村が名前に付いている。町の面積の80%が山林だそうである。
このことと実際見た感じで、どうも雄勝町は海に近い各浜が壊滅的に破壊された、ということは町自体が形が残らないほどに破壊されつくしたということになる。

始めてこの地に来た時はここがどこかわからなかったが、これは雄勝小学校とある。




2階建て校舎の屋上まで来たのだろうか。
児童は裏山に逃げ切れたのであろうか






その後の新聞報道だと人々は各地に避難してしまい地域の自治組織を維持できなくなったため、解散し、貯金などを分配する、組織が出てきたという。
学校、病院、商店、役所など基本的なものすべてが、なくなってしまったのだから・・・。







海沿いにこの街を見てきたがまともに残っている家は少なかった。









このあたりは小中学校のあった、雄勝町の中心地であったはずだ。








後日2回目のボランティア時にこの雄勝町をまた訪れた。雄勝市民が中心になって再建を目指す組織が立ち上がったと新聞で読み、事務局があるという市役所の支所を訪ねた。
山の中の福祉施設に疎開していたが、職員も疲弊しているのか、あまり親切とはいえなかった。
コンタクトしたかったのは無形重要文化財でその一式が流されてしまったという雄勝神楽の復興メンバーであったが、結局かなわなかった。













雄勝病院



雄勝町病院から半島のほうに少し行く
やはり地盤沈下


牡鹿でも、ここ雄勝でも海からエンジンの音が聞こえない。海を走っている船がいない。
漁労活動が一切停止している。



雄勝から女川に向かう途中にあった小さな漁港に下る途中。養殖いかだの浮きが散乱している。





どうしてこんな風になったんだろうか




女川病院の医療機器。水にぬれ使い物にならなくなったのか、ガラクタとして外に出してあった。
女川病院は海抜はかなりあるように見えたが、ここの1階が浸水したという。考えられない高さだ。




女川の病院から見た女川市街地、少なくともビルの5階までは津波が来ている。遠くに見えるビルの屋上の水の丸いタンクは数人が周囲を手でつなぎ合い助かったと聞いた。



女川病院で開かれたミニコンサート。この後に女川の避難所に行ったが、そこにもこのメンバーが来て同じコンサートをしていた。





牡鹿半島など途中で出会った車両は電気、電話、携帯電話関係の修理の車、自衛隊の車が多い。













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